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ポール・リクール
2013-04-20 Sat 23:23
Paul Ricoeur
(1913―2005)
フランスの哲学者。フランス反省哲学の伝統に根ざしつつ、解釈学的現象学の方法を革新して、神話、聖書解釈、精神分析、隠喩論(いんゆろん)、物語論、歴史論など幅広い領域で具体的なテクスト解釈学を展開し、多くの著作を発表する。また自己と他者の対立を止揚する倫理的な自己の解釈学を完成した。2000年には87歳で、記憶と歴史認識の問題を扱った大著を発表した。

リクールは南仏のバランスに生まれるが、2歳で第一次世界大戦の戦争孤児となり、レンヌの父方の祖父母に引き取られる。リクール家は代々プロテスタントの家系で、幼児から信仰的雰囲気のなかで育ち、青年のころから社会主義的キリスト教運動に参加する。レンヌ大学卒業後パリに上京、大学教授資格試験を準備しながら、実存哲学者ガブリエル・マルセルの哲学的薫陶を受け、またエドムント・フッサールの現象学から方法的啓示を受け、それがリクール哲学の方向を決定する。教授資格試験合格後いくつかのリセ(フランスの国立中等学校)で教える。1939年第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するやただちに動員される。翌年ドイツ軍の捕虜となり、5年間捕虜収容所生活を送るが、その間に収容所でフッサールの『イデーン』をフランス語訳し、ミケル・デュフレンヌと『K・ヤスパースと実存哲学』を共同執筆する。第二次世界大戦後ストラスブール大学を経て、56年パリ大学教授となる。69年いわゆる五月革命の発火点となったパリ大学ナンテール分校の文学部長に任命され、紛争の収拾にあたるが挫折(ざせつ)し、辞職する。3年後に復職。それと並行してシカゴ大学神学部教授を90年まで兼任する。欧米各地の大学の教壇に立ち、外国の九つのアカデミーの会員であり、世界の31の大学の名誉博士号を受け、2000年(平成12)には京都賞を受賞した。

前の著書で論じきれなかった問題が、次の著書の課題となるというように、次々と問題を追求していくのがリクールの哲学スタイルであった。そこで彼の半世紀を越える著作活動をいくつかの時期にわけてたどってみる。



リクール

意志の哲学
解釈学としての精神分析
言語の創造性の探求
自己の解釈学


1. 意志の哲学
リクールは「意志の哲学」という総題のもとに、彼の最初の哲学体系を構想し、3巻の著書を発表した。第1巻『意志的なものと非意志的なもの』(1950)で、リクールは意志の現象にフッサールの現象学的方法を適用する。すなわち反省を通しての本質直観によって、意志の純粋構造を記述することである。ただしリクールは、意志を非意志と相関させてとらえようとする。意志の決定には動機が働くが、身体はもっとも基本的な動機の源で、身体とともに欲求、情動、習慣といった非意志的なものが介入してくる。つまり意志のなかには、非意志が働いている。リクールはこうして、意志を意識の下部、存在のなかに根づかせるのである。第2巻『人間 この過ちやすきもの』(1960)以後では、悪と過ちの問題が扱われ、第2巻では過ちやすさの条件を純粋反省の方法で追求する。「人間は本性上脆(もろ)いもので、過ちやすい」が、その原因は「人間の自己と自己自身との不一致」にあることを論証する。第3巻『悪のシンボリズム』(1960)では、悪の可能性がいかにして人間の現実になるかの問題を、とりわけアダムの堕罪神話の解釈を通して考究する。リクールは、悪の起源をわれわれと同じ条件をもつアダム、人間の祖先に結び付け、善なるものとして創造された人間が過ちを犯すとして、根本悪の偶然性を啓示する。こうした神話解釈を通して、リクール哲学は解釈学へ接近する。

[ 執筆者:久米 博 ]

2. 解釈学としての精神分析
リクールは『フロイトを読む――解釈学試論』(1965)で、フロイトの全著作を哲学の立場から論じ、精神分析は観察科学でなく、欲望の言語の解釈学であると言明する。そして哲学の立場から精神分析を直接意識への批判として受け入れる。すなわち精神分析は直接意識が自己愛的な虚偽意識に陥っていることを批判し、自己がコギト(私は考える)の主体ではなく、無意識の欲望の対象になっていることを暴く。この批判を受け入れたコギトを、リクールは「傷ついたコギト」と表現する。この傷ついたコギトから、十全なコギトを回復するには、主体が反省によって意識的になる必要がある。

[ 執筆者:久米 博 ]

3. 言語の創造性の探求
リクールは、1960年代に一連の構造主義論争を通して自己の言語論とテクスト解釈学を確立し、言語による意味創造の探求へと向かう。『生きた隠喩』(1975)で、リクールは、隠喩こそ「言語の創造性のもっとも明瞭(めいりょう)な表現である」ことを立証しようとする。生きた隠喩とは、主語に異例な属性を賦与して、二つの異質な意味論的場を衝突させ、両者の間に解釈によって類似をみいだし、そこにおいて現実の新たな次元が開示されるとみるのである。そこに言語の創造性がある。次にリクールは物語論から言語の創造性にアプローチし、『時間と物語~』(1983~85)を発表する。ここで扱われるのは、宇宙的時間でも主観的な心理的時間でもなく、物語られる時間であり、それは人間化された時間である。物語られるものは時間のなかで起こり、逆に時間のなかで展開するものは物語られうる。客観的時間と主観的時間の対立という古代以来の難問を、リクールは物語の詩学に訴えて解決しようと企てる。そのために彼は、現象学と歴史学と物語論の三者会談を行うのである。リクールは物語を歴史物語とフィクション物語に分ける。現代の歴史学は実証的科学であろうとして、物語的要素を後退させる傾向にある。しかし歴史を歴史たらしめているものを追求するとき、歴史叙述と人間行動の物語的理解とは切り離せないのであり、そこからリクールは歴史と物語との間の間接的な関係を主張する。他方フィクションは、さまざまな技巧を駆使して虚構の時間経験を読者に得させてくれる。時間は物語によって言語にもたらされ、逆にその時間表現を読者が再形象化することによって、読者は時間を自分のものとすることができる。リクールは主観的時間と客観的時間の相克を第三の時間、すなわち暦などの歴史的時間によって媒介しようとする。結論でリクールは、物語的自己同一性という概念を提出する。われわれは自分の人生を一つの物語として語ることによって、自己同一性を獲得する。それは個人だけでなく、民族共同体についてもいえる。共同体は自民族の歴史を物語ることによって、共同体的自覚を得るのである。物語的自己同一性は、歴史とフィクションの交差を立証するものである。

[ 執筆者:久米 博 ]

4. 自己の解釈学
リクールは物語的自己同一性の概念をさらに発展させて、『他者のような自己自身』(1990)を発表する。「私はだれか」の問いに人生物語をもって答えるとき、それは自己欺瞞(ぎまん)や自己美化を免れない。物語的自己同一性が真の自己性に等しくなるためには、物語は自己性の倫理的責任を引き受けなければならない。だれが責任を負うのか、と問われて、それは私です、と答えるとき、その自己は倫理的主体である。自己性が独我論に陥るのを防いでくれるのは、他者性との出会いである。そこでリクールは倫理的目標を次のように掲げる。「正しい制度において、他者とともに、他者のために、善く生きること」。

2000年に出版された『記憶、歴史、忘却』の第1部では記憶の現象学が、第2部では歴史の認識論が、第3部では人間の歴史的条件の解釈学が扱われるが、それらはいずれも「過去を表象する」ことをめぐる思索である。われわれが歴史をつくり、歴史を書くのは、われわれが歴史的な存在だからである。そしてその結論では「困難な赦(ゆる)し」が論じられた。赦しは忘却ではないが、赦しこそ記憶と歴史と忘却の共通の地平をなすのである。

[ 執筆者:久米 博 ]


http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB/
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